メモ

●2011.12.10

・旧直方駅舎保存活動支援
・建設当時の駅舎復元3DCG製作
・建物調査
・シンポジウム基調講演

ファサード

正面立面図

断面図

断面図

3DCG

正面玄関

建設当時の直方駅舎復元3DCG

(c)一宇組

監修:中村享一

エンジニア:岩本徹郎

2011年4月29日の新駅舎完成にともない、JR直方駅の旧駅舎は役目を終え、解体されることになりました。旧駅舎解体には、建替計画当初から市民らが反対し、保存活用を求める活動が展開されました。

JR直方駅は、かつて筑豊炭田の石炭輸送の拠点駅として栄えました。最盛期には年間約800万人が利用し、機関区や操車場が置かれました。旧駅舎は、石炭産業を基盤に近代化を進めた日本の近代化過程と歴史的意義を象徴する重要な近代化遺産です。

全体の駅舎の意匠はアメリカ様式のスティック・スタイルを基調としています。スティック・スタイルとはアメリカ開拓期の典型的な様式で、明治期の日本の木造駅舎建築に多大な影響を与えました。建築は、ネオバロック趣味の玄関車寄せを中心にした、スティック・スタイルの木造駅舎の典型です。

創建以来、直方駅は、筑豊のマザータウンともいえる直方市の陸上交通の玄関口として役割を果たしてきました。つまり、旧駅舎は直方市の象徴的なランドマークであり、市民の暮らしや時代の変遷を見つめてきました。

2011年3月下旬、保存活用を求める市民団体「直方文化遺産研究会」の会員らが、全国から募った1万7,282人分の署名を直方市長に提出しました。その後、5月12日には、8,766人分の署名を追加提出。署名は、合せて2万6,048人分にも上りました。しかし、署名を受取った向野市長は「駅前整備は直方にとって重要な計画で、粛々と進めることが将来のために大事なことだ」などと回答して、スタンスを変えませんでした。

2011年5月26日、駅舎の保存を求める市民団体「101歳直方駅舎の再生を求めるネットワーク(樋口清代表」の要請を受け、旧直方駅舎の建物緊急調査が行われました。調査員として、中村享一も参加し、小屋裏を調査しました。駅舎は、明治43年(1910)に改築されましたが、明治23年(1890)年築の初代博多駅を移築した可能性が高いといわれています。製材技術は、手斧(ちょうな)や斧、鉞(まさかり)の時代から、明治30年代を挟んで機械式に変わりました。調査の結果、構造部材の製材技術には前後する二つの時代の技術が見られ、初代博多駅を移築し、再生活用された可能性が高まりました。但し、初代博多駅の移築先は、直方駅の他に吉塚駅説があるため、断定するには更なる根拠と、実証的な検討が必要です。

2011年6月3日、市民団体は更なる学術調査を求める意見書を直方市監査委員に提出しました。この意見書には、緊急建物調査をまとめたレポート(調査団建築史家・工学博士・九州大学大学院芸術工学研究院教授藤原恵洋)が盛り込まれました。しかし、西日本新聞の取材に対し、市長は駅舎の解体計画を変更しない姿勢をあらためて示しました。

2011年6月8日、「直方駅の価値を考える市民シンポジウム-まちをつくる 駅と生きる」(ユメニティのおがた)が、市民団体の主催で開催されました。 市民ら約100人が参加し、中村享一が基調講演とパネル討論に参加しました。基調講演では、明治43年(1910)完成当時の旧駅舎を復元した3DCGを紹介し、「石炭と鉄の近代産業の発展の中、直方は重要な役目を果たした。その象徴が直方駅だ。なくしていいものか」と問いかけました。続くパネル討論では、緊急調査の報告などがあり、旧駅舎の文化的価値が議論されました。(朝日新聞2011年6月10日掲載)

市民団体は、解体費の支出差し止めの住民監査請求や、工事差し止めの仮処分を裁判所に求めましたが、いずれも直方市に退けられます。但し、玄関部分だけは、保存移設することが認められました。

2011年10月3日、ついに解体工事に着手。市民の努力も空しく、旧駅舎は、跡形もなく解体されてしまいました。

旧駅舎は、明治以降の現存する貴重な建築遺産でした。駅としての役目が終わったとして、簡単に解体して良いとは、とうてい思えません。建築はいかに市民に愛されたか、それは大変重要なことであると思います。直方が輝いていた時代の象徴を取り壊すことの意味を問います。直方駅が建設された時代の直方という都市の位置付け。直方駅建設に投入された技術と先端性を伝えています。利用可能な古い建築が壊される訳を問います。

一宇一級建築士事務所
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