メモ

●2011.03.15

南蛮&唐建築技術と漆喰技術の伝播

眼鏡橋

特定非営利活動法人長崎科学・産業技術推進機構(NPOサンスイ機構)機関誌
デジマ第60号寄稿
歴史探訪 南蛮&唐建築技術と漆喰技術の伝播
中村享一


建築・土木技術において西洋から導入された技術と伝統的な技術と融合していったかについて関係性を見つけようとするが、近代化が進むに伴って伝統的技術は消えていったので調べるのは容易でない。

現在は2つの項目に的を絞って調査を行っている。一つは伝統技術との融合する過程で重要であった人物(小山秀・北野織部・ドロ神父・鉄川与助)や技術者集団(仁平石工・種山石工)の流れに的を絞っている。もう一つは伝統的な素材である石灰や漆喰に注目して研究を進めている。時代は鎖国に入る16〜17世紀頃で織田信長から豊臣秀吉・徳川家康へと繋がる激動の時代である。戦国時代、城の耐火性をあげるために積極的に使われ始め、後には防災のため蔵などに多用されていく。

16世紀中頃から平戸・長崎・豊後を始めとする地域では西洋文化や技術を積極的に導入し、交易を行った。長崎は1571年大村純忠が朝長対馬を長崎町割奉行として派遣し、六か町の建設を行い開港した。平戸は1550年ポルトガル船来航以来藩主松浦鎮信からの支援を得てイギリスやオランダ商館が建設された。住居の他に船を造ったり、倉庫や火薬を製造する家屋(石灰利用)・石造の埠頭まで、出現させた。平戸では街区といえる規模で西洋化がなされたと言って良い。1637年天草で起こったキリシタンの反乱などをきっかけに、海外の勢力の拡大や海外からの侵入をおそれた幕府はポルトガルを追い出し、長崎出島でオランダと中国のみの貿易による鎖国政策を1641年に行う。

一方中国や東アジア諸国とは、国内のいろんな地域で行われた交易を長崎に集中させる事が1610年頃から幕府の意図で計画的に進められていた。長崎も朱印船の港でもあり主に東南アジアとの貿易をしていたが、朱印船貿易も1631年には全廃される。長崎開港当時は人口約1500人であった町が、1595年頃には約3000人1614年頃には25,000人以上と各地から商人達が集まり急激な都市化を遂げ、開港当初の町(内町)の他に外町ができる。その様な変化の中で、低地部分の護岸が整備され新造成地が出現し眼鏡橋や出島が築造される。出島は地元の有力な商人達の共同出資で造成され、眼鏡橋は渡来僧の黙子如定の指導によって建造されたと言われている。

この時代、長崎は南蛮文化や技術と唐文化や技術が複合的に集中的に導入された時代である。鎖国により海外との交易は縮小され、幕府の管理下で行われることとなるが、切れたわけではない。様々な技術や文化や物は長崎を通じて国内へ伝播せざるを得ない環境ができたということである。

建築・土木技術について考察してみると西洋・中国共に石の建造文化と技術があり長崎では積極的に技術導入を行い、護岸や橋や建築物が建造なされ独自の進化を始めていった。なかでも1634年眼鏡橋の建造は最大の意味を持つと考える。眼鏡橋の技術伝承は中国人ともポルトガル人とも説があるが、元長崎総合科学大学教授の片寄俊秀氏は中国伝来を主張されながらも決定打が出てこないと記している。著者も中国伝来説を主張したい。

一つは建造当時の長崎の貿易環境である。開港時の利便性の良い所はすでに押えられていた。利便性の良い安全な用地を確保するためには護岸整備と石橋建造は中国にとっても重要な整備であった。

二つ目は漆喰が利用され築造がなされている事である。当時御朱印船で荒木宗太郎が漆喰の材料である石灰を輸入していた。本石灰町はその石灰が荷揚げをしていたことで町名を残しているが、漆喰は輸入されるような貴重な建築資材であった。また、材料の輸入は同時に技術の導入でもあるので中国伝来説を支持している。アーチ礎石を安全に維持するためには組み方も需要であるが、充填材はその調合など高い技術が必要な事となる。(眼鏡橋は長崎大水害の時に一部が壊れ修理をしたが、迫石の上側や壁石から漆喰が発見され、基礎や柱脚部には水硬性が強い「天川漆喰」が使われていたことがわかっている。)漆喰は船の補修材・橋梁や護岸の石材の目地や充填材・建築の防火材として様々な使われ方をされながら独自の技術を生成していく。石工や船大工や左官達が広く技術を広げていった。

日本の漆喰は中国や西洋の成分と製法が異なる。西洋化された建築が改めて出現する幕末・明治初期に大浦海岸埋立や天主堂建築や工場建築・洋館建築群や軍艦島護岸などにその技術が進化し応用されて使われることとなる。

一宇一級建築士事務所
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