Architectural Regenaration Design Conference

建築再生デザイン会議  第一回長崎会議報告


古谷誠章/建築家・早稲田大学教授

武基雄の設計した「長崎市水族館」を一昨年の暮に初めて訪れた。日本建築家全集で記憶していた海面に影を映すその姿は、実際には躯体の風化がひどくあちこちでコンクリートが剥げ落ち、そして肝心の海辺は遥か沖合いまで埋め立てられていて、雑多な建物に取り囲まれるただの平地に立っていた。築後40年の歳月は一体この建築に何をもたらしたのだろうか。
第二次世界大戦の疲労とそれに追い討ちをかける原爆投下によって疲弊しきった長崎の町に、戦後再び子供たちの歓声を響かせたのは、ほかならぬこの水族館であった。しかも武にとっては自らの故郷に建つ公共建築である。いやが上にも気合が入ったに違いない。今見ても尚まごうことなき力作であり、傑作である。竣工当時の市民たちの喜びが目に浮かぶようだ。当時の早稲田大学武研究室ではル・コルビュジェの作品集がさながらバイブルのようであったという。近代建築の巨匠を参照しながら、ひたすら本格的な建築を目指した心意気が伝わってくる。五島石を用いたという柔らかい壁の質感とコンクリート架構の表現に、師弟ともどもに心血を注いだ造形が息づき、全身に力がみなぎっているように感じられた。
海水が館内を循環するのが水族館の定めであり、塩害によるコンクリートの風化が避けられなかったのは宿命だともいえるが、ここまで痛んでしまった原因は長年にわたる維持管理の不十分さにあることは間違いない。開館当初から運営は館の独立採算でと考えられ、自治体からの経費的な支援はなかったという。入場料収入だけで10年単位の大規模な改修費用を予算化するのは容易ではない。近年では来館者の減少と入場料の値上げの悪循環に陥っていたという。昨年3月についに経営悪化や老朽化を理由に閉館され、近くの長崎総合科学大学に土地とともに売却された。しかし存廃を含めて今後の活用法はまだ定まっていない。明かりの消えた館内には、今でもところどころに鮫や亀や山椒魚などが残って生き続け、その水槽にだけぽつんと照明がついている。池で遊ぶペンギンたちも、いずれ新築中の水族館に引き取られることになっている。
長崎に育ったすべての子供という子供、大人という大人が、誰でも一度は訪れたであろうこの水族館、人一倍祝福されて誕生したはずの建築であるが、わずか40年の寿命をもってかき消されようとしている。

■「今日までにこの世に多くの建築が生み出され、そして多くがその役目を終えて取り壊された。社会や文化の発展を夢見て建築がつくられ、その喜びの中で、しばしば盛大に、また時にはつつましくとも、しかし例外無くその誕生を祝ってきた。だが建築が解体される場面ではどうか。ほとんどの場合突如として建築の幕が下ろされ、見る間に粉々に打ち砕かれて運び去られてしまう。中にはまだまだ壮健ながら、時代の要請に沿うことができずに寿命が尽きるものもある。竣工式の華やかさにくらべると、ずいぶんと寂しく、まるで廃棄物を扱うような冷たさだ。
ある日忽然と姿を消すのではなく、ゆっくりと最後まで燃焼するような、そんな建築の終わり方はできないものだろうか。多くの人々に愛されてきた建築には、それに相応しい再生の方法が考えられないか。突如棄てられるのではなく、少しずつ新しい建築に置き換わるような斬新な建替えのデザインはないのか。僕たちは建築をいかに壊し、いかに取り替え、そしていかに残すのかというテーマについて深く議論をしなくてはならない。」

今年2月、建築の作り方だけでなく、建築の壊し方、さらに建築の再活用の仕方を考える「建築再生デザイン会議」が発足した。これはその設立趣旨文の要約であり、建築の臨終と再生を考えることを目的としている。長崎出身の建築家中村享一の呼びかけに応じて、議長となった池田武邦をはじめとする建築家や、インテリアデザイナー、建築史家、文化財保存の専門家、写真家、情報技術者、編集者、エッセイスト、再生建材の考案者等々、この問題に関心を持つ多彩な顔ぶれが集まった。中村と古谷が会議の企画や進行の取りまとめ役を務めている。

長崎総科大の林一馬教授が実行委員長となり、その第1回長崎会議がこの5月2日から3日にかけて旧長崎市水族館ならびに長崎市出島のNIBホールを主会場に開催された。ゲストとして「癒し」にいち早く着目した文化人類学者である上田紀行、浄土宗長寿院の小山法龍住職、香港上海銀行長崎支店の保存再生を実現させた雑誌編集者の川良真理、この水族館の代替として建設される新しい施設の中で、ヴァーチャル水族館をプログラムしている立体映像学者の竹田仰長崎総科大教授ら4氏が参加した。
初日には旧長崎市水族館(武基雄、1959年)、日本26聖人殉教記念館と聖堂(今井兼次、1962年)、長崎海星学園校舎(吉阪隆正、1959年)、香港上海銀行長崎支店(1904年)など、建築再生に関連する市内の建築を見学した。とくに水族館では塩害で柱のコンクリートが剥落するなど劣化のもっとも激しい水槽メンテナンス階や、一度も本格的な防水改修のされなかった屋上階、その影響で漏水の絶えないエントランスホールなどを時間をかけて見た。
2日目の冒頭には写真家淺川敏による水族館の現状を被写体とした映像作品が上映された。風化した建築の惨状を暴き出すのではなく、むしろ年月を経て今なお鈍く輝く建築の表情や、そこに名残る往年の精気のようなものが瑞々しく写し取られている。
その後は終日を議論に費やしたが、ここではその詳細をつぶさに伝えることはで紙幅の都合でできない。だが大きく次のような3つの論調がらせん状に絡まり合っていたように思う。

第1の論点は、技術文明至上主義が効率一辺倒の建設を推し進め、非効率的なものの破壊や廃棄を助長したとするもので、これに代わる循環型の建設を目指そうと唱える。基調講演で池田武邦は、これまで世界中で機械技術を過信し、自然をねじ伏せながら建築や都市を築いてきたが、その代償として払った犠牲は大きく、山や川や田畑の景観は著しく傷つけられていると述べた。現代では、道からも川からも、人びとの日常のアクティビティが消失している。
また取るに足らないとされるような普通の既存建築の骨格でも、きちんと考えればいかようにも再生可能で、それによって新規の建築工事費を縮減することも可能だと述べ、実際にも多くの改修事例を手がける大分の青木茂の論点もこれに通ずる。

第2の視点は、僕自身もカルロ・スカルパの例を引いて述べたものだが、既存建築をただ元の姿のままに保存するのではなく、新旧の建築要素が渾然一体となってまったく新しい空間をクリエイトすることを考えるものだ。ゲストのコメントでは上田紀行の、「命」と「生命」は異なり、保存も単に生命を維持すればよいというものではない、建築家はこれまで古びることで価値を増す建築について十分考えてきたのかとの疑問も投げかけた。
この視点は古いパーツはもとより建築の古さそれ自体にも、新しく活用可能な価値があるとするもので、悪戦苦闘しながらも老朽化した京都毎日新聞社屋を自らのオフィスやホールに改修した若林広幸の姿勢、保存された香港上海銀行の1階ホールでコンサートやパーティができるように働きかけた川良真理、ある建築が再生活用されることで、その周囲の環境をも変革する力が必要とした松岡恭子の主張とも関連し合っている。

さらに第3の視座であるが、中には時期が来て自然に消え去っていくような、そんな建築もあってもいいのではないかというものである。ひところ鬱蒼と蔦の繁茂していたスカルパのブリオン家の墓地を訪れて以来、僕が常々感じていることでもあった。時が経ちブリオン夫妻の記憶が人々の脳裏から遠ざかるにつれて、やがてこの墓地も植物に覆われ土に返っていくようにつくられたのではないかとさえ思うのだ。でなければあれだけ材料に敏感で知識も豊富なスカルパが、敢えて風化の早いコンクリートの打ち放しを外部に多用するとは考えにくい。
しかしこの論点については当日十分議論が尽くされたとはいえないだろう。当の水族館にはあまりにも存在感が溢れていたし、大方の論調もこれをあたら取り壊す愚を避けるべきだとしていた。その雰囲気もあって、「建築の壊し方を設計する」というこの第3の問題については、議論が先送りされていた。しいて言えば歴史的建造物の修復に詳しい後藤治の、この水族館は現状のままでも2/3は使用可能であり、再生活用の成否は人々が残したいと思うか否かの意志次第、やたらにさっさと壊さずに暫らく放っておいてゆっくり考えることはできないかとの問題提起がこれに通じる。小山住職の建築は人びとに語り継がれる因縁や物語をもつべきだという指摘や、川良真理の建築主や所有者だけでなく、長い時間そこで思い出を紡ぐことになる住み手や使用者も建築の持ち主だとする主張は、ともに多くの人びとに分有されてはじめて「建築が生きられる」ことを示唆している。竹田仰も別の言いまわしながら、建築をただ元の姿で保存するのではなく、そこを訪れて見る人によって新たに再発見される建築の価値について述べた。いずれも建築を生かすのはそこに立ち現れる人びとの存在だとする意見である。さらに三井所清史の、この機会を建築の再生デザインを考える契機とすべく、水族館所有者である長崎総合科学大学には是非ともフロンティア精神を持ってほしいとの声援は、これにさらに別の意味合いを付加するものである。これまでは水族館として多くの市民がこの建築を生かしてきたが、これを今後、建築を志す多くの建築学生にとって、あるいは多くの建築家にとっても、建築再生を考える生きた教材として活用して欲しいとの願いである。なにしろ人の心を動かすこれだけの力作があり、同時にそれが40年の歳月によって蝕まれ生命が危ぶまれているという、極めて稀有な「患例」を目の当たりにしているのである。これをこれまでの建築業の論理で、不用意に消却するようなことがあってはならないだろう。ここにいたった原因を探り、傷みを根治して新しい建築として再生するために、その方策の検討を、文化的にも社会的にも、そして建築経済的にも、建設業を含む今日の社会全体が迫られている。

形あるものには寿命があるのは必定だ。建築の体躯だけが技術的に長寿命化されればよいのではない。変転する時代を超えて建築が生き生きと機能しなければならない。建築の終末とその転生については、まだまだ考えなくてはならないだろう。真のストック型の社会の構築はそうした検討の延長線上にこそ成立するはずだ。この議論は11月3日、4日、早稲田大学大隈講堂での第2回東京会議に引き継がれることになっている。
(新建築2000年7月号より)


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